土地に根ざす
よく動いた8月であった。

8月初めの川俣町山木屋は、驚くほど寒かった。
今回も宿泊させていただいた大内さん宅では、ブルーベリーを摘ませていただいた。
「4日も放っておいたら、ほら、みんなアリに食われっちまう。」

大内さん丹精のブルーベリーは、美味しくジャムにして、ゆっくりいただいた。
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会津若松の居酒屋『籠太』では、いつも旬の地のものを美味しくいただける。
翌朝、籠太の鈴木さんに連れて行っていただいた農家の児島さんは、
自然農で野菜やお米を育てている。
ナス、ピーマン、トウモロコシ、畑で採ったそのままで食べられる。
何ともびっくりするような野菜である。

三春〜会津若松〜南会津…福島の旅は、いつも旬の美味しさ満載である。

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中旬からは、今年二度目の九州。
蒲郡〜倉敷を経由するので、それほど遠くには感じない。
松下隆二さんと合流すれば、もう地元にいるのも同然だ。

今年もお世話になった北九州の池田国昭さんは、
瓶一杯の梅干しと二升の梅酢を用意して待っていて下さった。
ここ数年来、池田さんの梅干しが我が家の味覚の一角を占めている。
マンドリン、ギター×2、チャランゴの四重奏のレパートリーが増えるのも楽しい事だ。
・・・
和田名保子さんのお招きで、初めて法華院温泉山荘に伺った。
標高1.300m、久住連山の坊がづる湿原の端にあるこの山荘で、
和田さんは16年もコンサートを続けているそうだ。
九州最高所の源泉は、湯の花が程よく漂う好いお湯であった。
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国東半島での滞在も初めてである。
昨年5月から、国見ユースホステルを引き継がれた友人吉田さんご夫妻が、
コンサートを企画して下さった。

アクティブな拓也さん、真由美さんの周りに集うのは、とても個性的な土地の人たち。
料理人・拓也さんの「アースオーブン料理」に舌鼓を打ちながら、夜遅くまで話が弾んだ。

三方を美しい海岸に囲まれ、緑豊かな山里が続き、
あちらこちらに神社仏閣が散在する国東では、
すべてのものが生き生きとして、日の光も、海の煌めきも、とても力強く感じられた。
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・・
『土地に根ざす』とは、
その場所において、森羅万象の一部となることであって、
決して土地にしばられることではない。
真に土地に根ざしている人たちからは、
雄大な自由を感じる。




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# by mixturamusic | 2017-08-31 12:01
美しさに育まれた命
初めて福岡県東峰村の小石原を訪ねたのは、2013年の初夏であった。
そのすぐあとに、丹沢ドン会の会報に、こんな文章を書いた。
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(前略)
 先日、福岡県東峰村の小石原(こいしわら)に行って来ました。大分県境にほど近い小石原は、17世紀から続く焼き物の里としても知られています。大分道を下り、『やきもの街道』と呼ばれる山間の道を東峰村に入った頃から、道の両側に棚田が現れました。狭い面積の田んぼはすべて小さな石を積み組んだ石垣で段々に仕切られ、細い流れから取り込んだ水が、上から順番に掛け流されていました。小石原まで20km以上の山道沿いに、小さな棚田群はずっと続いているのです。
「このあたりの窯元も、もとはみんな田んぼや畑をやりながら、焼き物を焼いていたんです。今でも、自分のところで食べるくらいは作りよりますよ。」
小石原焼を代表する名工、故太田熊夫さんの跡取り孝宏さんの奥様が、笑いながらおっしゃっていました。
 『やきもの街道』沿いの棚田は、とても手入れの行き届いた田んぼばかりでした。機械の入らない小さな耕作地、形も大きさも様々です。それぞれに別々の家が耕作しているに違いありません。にもかかわらず、不思議なまでの統一感。まさに伝統的風景の美しさです。

 人々は、その土地々で生きるために、さまざまな工夫を重ね、いろいろな技術を編み出して来ました。その技術の中には、道具や決まり事、更に言えばものの考え方…哲学も含まれます。それはすなわち、哲学…生きるための工夫…が、技術を生み出して来たとも言えるでしょう。一般的に、それらを総称して『文化』と呼んでいます。よく「文化は人々の生活の中で生まれて来た」と解釈されていますが、それよりも「文化が人々を生かして来た」と言い換えた方が的確ではないでしょうか?

 『伝統的風景の美しさ』は、『伝統文化の継承・実践』によってのみ成り立ちます。そこには生きるための智慧が充満し、生きるための美しさがいっぱいに現れています。農作業は言うまでもなく、生きるための働きです。伝統的農業が継承された風景が美しいのは、『生きるための美しさ』なのです。

--------(2013.8.4.美しい風景とは その2)
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時を同じくして、九州に行く機会があれば立ち寄るようになったのが、
日田市源栄町の小鹿田焼きの里である。

昨年5月、小鹿田から山道を通って東峰村に抜けた。
途中、それこそ昔話に出てきそうな集落がいくつもあり、
その美しさに、幾度となく車を下りて辺りを散策した。

山間に点在する家々の脇には、必ず小川が流れている。
清らかな水が流れている。
生活のための水。
田畑のための水。
命を繋ぐ水。
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その水が、たくさんの命を奪ってしまった。
生活のための水が、たくさんの人たちの生活の場を破壊してしまった。
棚田を満たすはずの水が、多くの棚田を壊してしまった。

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地形をも変えてしまうような豪雨の残した爪痕に、
その復旧は気の遠くなるような作業に違いない。

それでも…
この大らかな山間の美しさに育てられた、
たくさんの命に思いを馳せて、
どうか美しさを美しさのままで、
美しい暮らしを取り戻して下さい。

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美しさに育まれた命こそ、
美しさに溢れる、平和な未来の糧なのです。




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# by mixturamusic | 2017-07-13 22:45
お天道様の都合
「今年は雨が少なくて…」

田んぼ作業の季節、
田んぼのことを尋ねられると、
こんなふうに答えていた。

実際、春先からの天候は雨が少なく、
我が田んぼの下を流れる小川には、
ほとんど水がない状態が続いていた。

5月に初めに和之さんがトラクターをかけて下さり、
なんとか苗代分の水だけ引いて、自家採取の種籾を播く。
気温の乱高下もあり、徒長気味ではあるが、田植えのための苗は育ってくれた。

「今年は雨が少なくて…」

着々と作業が進む和之さんの田んぼを横目に、
私は自身への言い訳を繰り返していた。

「こっちには全然水がねえだよ」
5年前までこの田んぼを守ってきた金一さんの言葉が思い出される。
梅雨入りまで水に不自由することは、昨年までの経験で分かっていることだ。

「今年は水が少なくて…」

福島に出発する前日、まとまった雨が降った。
「今しかない」と、雨の中、夢中で代を掻き、やっと下の三枚を田んぼにした。
小川の水の絶対量が少なく、上の三枚には水が溜まらない。

「今年は水が少なくて…
田植えは下の三枚だけになりそうだ。」

「上の三枚に水がないので、取水口をいじっておきました。」
福島滞在中に和之さんからメールが届いた。
ありがたい話。でも雨がなければ水は溜まらないだろうなあ…

きれいに代が掻かれた最上段。水はしっかり溜まっている。
二段目、三段目は、まだ畑のような姿である。
下の三枚の田植えをしながら考えた。

「今年は雨が少なくて…」

翌日、たくさんの雨が降った。
また「今しかない」と、大雨の中、夢中で代を掻いた。
小川の水はみるみる増えて、田んぼに水が満ちてきた。

翌日。
スケジュールの都合上、田植えの日程は今日一日しかない。
田んぼに梯子をかけ、泥を平らにならしてから、早速田植えに取りかかった。

目の前に現れた小さなカエルが、急に歌を歌いだした。
「歌は、こうやって歌うのよ」
カエルが教えてくれているような、美しく、力強い歌である。

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今年もなんとか田植えができた。
初夏の風景ができた。
この安堵の気持ちは格別だ。

不出来な私の田んぼ作業に
いつも手を差し伸べて下さる和之さん、
本当にありがとうございます。

「今年は雨が少なくて…」
「そんなこと言っちゃぁ、お天道様に叱られらぁ。」
これも金一さんの言葉。

『農とは、お天道様の都合に人間が合わせるということ』

今年の田植えでも、またたくさんのことを学ばせていただいた。

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# by mixturamusic | 2017-06-27 18:09
抽象性と具体性
人はつねに、具体性を優先して求める傾向にある。

実生活が具体的であるがために
致し方ないことかもしれないが、
そもそも具体的な事物(ジブツ)も
たくさんの抽象性が集まって成り立っている。

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例えば…

演奏における技術は、具体性である。
技術によって表されるのは、抽象性である。

同じように
手工藝の技術は、具体性であるが
その技術によって出現するのは、
あきらかに抽象性の『風合い』であったり、
『心地』であったり、『良さ』であったり。

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抽象性と具体性を、車の両輪のようなものだと考えれば、
どちらが欠けても、用は為さない。
バランスが欠けても、用は為さない。

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抽象性と具体性のバランスとは、いかなるものか?

命の存在は抽象的であるが、
具体的な肉体によって
その生存が確認できる。

命のために肉体があるのであって、
肉体のために命があるのではない。
『抽象性のために、具体性を役立てる』
これが二者のバランスである。

とは言うものの
そもそも抽象性と具体性は、
その性質が大きく異なるために
同じバランス(秤)に乗せられるものではない。

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『高度な技術があれば、何でも出来る』とは、
極めて危険な考え方である。
抽象性である『美しさ』を求めるための技術(具体性)でなければ、
毒性をも併せ持つことを、知るべきである。

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注)
ここでいう抽象性と具体性は、
抽象芸術・具象芸術などではないことを断っておく。
抽象芸術の優位を言っているのでもない。

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# by mixturamusic | 2017-06-02 11:26
命に直結した判断
数年来、我が家は毎年手前味噌である。
このところ、自家栽培のお米から麹を育て、
友人の作った大豆で仕込んでいる。

妻から、
水分量とか塩分とか、何か変えてみたい事はあるか聞かれ、
去年と同じでいい、と応えた。

こういう味覚について、自分はかなり寛容だと思う。
ただ「美味しければいい」と思う。
美味しいものに対しては、
極力自分の好みを前に出さないことにしている。

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知らない土地に行って、そこで出された郷土料理が、
自分の口に合わないときには、
自分の味覚には、この新しい美味しさを受け入れるだけの容量がない、
と思う事にしている。
そして出来る事なら、
あと複数回、別の機会に食べてみる。

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ものごとを正しく判断するためには、
普遍的な判断力を磨いておかなければならない。
磨いておくと言うよりも、
ニュートラルな状態にしておくことが好ましい。

人間には、
個人としての好き嫌いが必ずつきまとうので、
ことさらそれを強調するより、
極力それを抑えておいた方が、
より自然な判断ができるはずである。

好き嫌いを優先して判断すると
自分勝手な結果になりやすい。

それでは何を判断の基準にするか……

それは「命と直結しているかどうか」である。

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真の美味しさは、命に直結した美味しさである。
その美味しさは、「ただ美味しい」としか言いようがない。

それは何の分野でも同じこと。
音楽でも絵画でも文学でも。

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フォルクローレは自由な音楽である。
演奏者に、多くの判断が委ねられている。
その判断には、(形式上の約束事を除いて)狭義の正誤は存在しない。
ただ、命に直結しているか否かが問われるのみである。

「私にそんな判断が出来るでしょうか?」
ある生徒さんの問いに、
「日々の暮らしが真っ当であれば、誰にでも正しい判断ができるでしょう。
一人ひとりの判断がそれぞれでも、真っ当な暮らしが反映されていれば、
それはすべて正しい判断だと言えるのです。」
と応えた。

命に直結した判断を、電光石火で下せるように、
日々の暮らしを、美しく調えたいと思う。

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# by mixturamusic | 2017-05-07 23:30



  木下 尊惇 
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